釣り道を語る ~ゲームの主導権~

インビクタスという映画がある。

 

 


これはネルソン・マンデラ南アフリカ共和国の大統領に就任した直後、黒人と白人が一つになる象徴として、1995年ラグビーW杯に、同国では初の人種の隔たりを除外したチームが挑んだ内実を描いたストーリーであった。


その映画のコピーにあった一文

「 私は我が運命の支配者、我が魂の指揮官である 」

この映画内で使用された曲からとられたフレーズに共感を覚え、揺らぐ意思に打つ楔として記憶している。





帰るという決断


例えば最近、クルクルバチを見ていない。
当然、それに伴う爆釣だなんだというフレーズには縁がない。

その結果、運動不足解消に雨乞いと、風神の舞を週末や潮周りの良い日には行う事にしているが、効果が出ているかどうかは私には解らない。

だけれども坊主と言うワードにも縁がない。


なぜか


特別に上手いわけでも、引き出しが多い訳でもなく、釣りをしないからだ。
水辺に立って、現況を判断した上で、釣りを全くしないで帰るからだ。


だからボウズにはならない。



主導権


自然は思うようにならない。
読んで字の如く、正にあるがままの状態を意味する。

だからといって、こちらも、やらなければならない理由は何もない。
それに付き合わなければいけない、何て事は無い。

勿論、渋いゲームでもしたいと言うなら、やればいいし、釣りをする事が目的でも構わないと思う。

ただ、あくまでも最終決定する権限は自分にある事は忘れたくは無い。
自然だから仕方ないでスタートは切らない。



自然を相手にする、自然に対する、と言うのはこう言う事で、

つまり主導権を失うと言う事は自分までも自然に取り込まれてしまう行為では無いかと思う。

 

 

P.S 2017

 

絶対にその日にやらないといけない釣りって、つまりはヒトに主導権の無い釣りなんですよね。